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                                                御所沼エッセー (1)

曲がり角の公園  中村 良夫

 

 

 

    昭和63年の秋に、この公園の見直し計画にかかわったときから、古河総合公園といういかにも役所の財産台帳にあるような名称には、違和感をもっていました。

  先ずこの場所はなんといっても古河公方ゆかりの御所沼復元が主題ですから、歴史公園という最初の発想からしても、御所沼や古河公方の名前を冠した方がピンときますね。

 もう一つ、いいがかりのように聞こえるかも知れませんが、公園という行政用語にたいする反省もありました。

 

 公園という和製漢語は、西欧化をせまられていた明治政府の急ごしらえの翻訳語でしょう。明治維新のころ、西欧の都市は、産業革命に、ひきつづいて鉄道駅や、劇場や、デパートなどにならんで、公園と云う名の都市緑地が文明国の証しのように、いっせいに咲き始めていました。それは、日当りのわるい悪臭ふんぷんの過密都市が産んだ窮余の発明でありましたから、その根本は衛生思想といってよいのです。

 

 日本の公園は明治初期の最高行政機関であった太政官の布告できめられたので、太政官公園ともよばれています。

 ところが我が国の都市にはもっと昔から、名所とよばれるすばらしい場所がありました。そのおおくは、神社やお寺の境内や門前にあって、お参りをすませたのち、うまいものに舌づつみをうったり、ときには見せ物や芝居小屋にたちよったりと、くったくない歓声とみずみずしい庭園がないまぜになった佳境でした。それは神仏との共食儀礼観にもとづく風流な文化思想によるものでしたから、衛生思想から芽生えた公園とは根っこがまったくことなるもので、似て非なる場所でした。

 

 西洋式の公園などなかったこの時代に、大急ぎで公園をつくるとなれば、江戸時代の都市名所をそのまま公園に見立てるしかなかったのです。こうして、東京では上野、浅草、芝など。京都では知恩院等の境内であった丸山公園など江戸時代に賑わった名所がそのまま公園によみかえられました。ところが、やがて日比谷公園や震災復興公園のような西欧式の公園があらわれると、神社仏閣の山水性と賑わいがまじりあった、聖俗の混沌がいつしか不純とされ、さらに戦後になると、あじも素っ気もない禁止条項ばかりがつみあげられた公園なるものがはびこるしまつになった。特に戦後はその傾向がつよい。

 

 古河総合公園のばあい、都市名所とはいささか趣がちがうが、やはり社交と山水の共存はめざしていた。じっさい、明治期の鴻巣桃林花見はキレイどころをあげてのどんちゃんさわぎであったらしい。ジェラテリアの導入などもこうした名所観がいくぶん影響しているが、飲食などもってのほか、と最初はずんぶん抵抗するむきが多かった。

 

 さて、それでは古河総合公園はどのような名前が良いか、とたずねられれば、御所沼コモンズがいいとおもっている.コモンズはむかしの村にあった村人の共有地つまり、入会地のことである。じっさい、昔、この公園の一部は入り会いであった。

 

 なぜ、この名称がいいのか、その理由の開陳はまたつぎの機会にしよう。

 都市公園はいま、おおきな曲がり角にたっているのだ。

                                                                (2014年7月10日)

                                                                  東京工業大学名誉教授

 

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