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                                                御所沼エッセー (5)

さと山の時空    中村 良夫

 

 

      

 南仏プロヴァンス育ちの庭園史の先生とおしゃべりしていたときです。ふるさとの思い出話しになりました。

 

 こどものころ、庭木にとまってジージー 鳴く蝉をめがけて石をなげて追い立てたというのです。プロバンスといえば、昆虫記でよく知られたファーブルさえも、蝉を嫌って空砲を撃ったといいますから、蝉はよほどの嫌われ者らしいのです。すくなくても、フランス人は蝉に情緒的な感情はもちあわせていないらしい、と知りました。フランスにはひぐらしのように切ないほど風流な声を散らす蝉はいないようです。

 

 蝉が鳴く里山。

 それは野生と人間のあいだに育つ生態系といえば、いちおう国際的にも理解してもらえますが、ことはそれほど簡単ではありません。

 里山は自然でもありまた文化だからです。

 

 蝉の鳴き声は里山に馴染んだ風物として、あるいはその風景とともにさとらねばなりません。地中海沿岸は、いまでも有名なレバノン杉のような森林に覆われた山もありますが、ローマ以前から文明の進んだこの地域では、船や建築用材として伐られるともう森林の再生産はむずかしかったそうです。その海沿いの山地は、大理石の屑が白骨のようにちらばる痩せた山肌に、背の低いオリーブが生えているくらいです。ガーリグとよばれるこの荒涼とした大地こそがプロヴァンスの原風景なのです。

                   

 ところが、農民たちが近くの都市へ出稼ぎにゆくようになると、植生の遷移をおさえていたヤギの放牧がきえてゆきます。するとそこへどんどん草も生え、やがて灌木も侵入して、荒涼とした詩情がうすれてゆきます。これが、南仏プロバンスの里山問題です。ここでは貧弱な生態系が原風景なのです。

             

 さて、我が国の田園は、細かな地形の襞のなかに、水田やため池、水路など稲作をささえる湿地が森のヘリをうるおしています。ゆりかごのようにたゆたうこの大地のなかで、営々と命をつなぐ生物の顔ぶれもゆたかです。

                    

 嫋嫋と風になびく秋草の茂みに虫の音を探って野道を歩み、あるいは都市の庭に里山を写しとって、四季おりおり人生の陰翳をそこにかさねてまいりました。この日本人の原郷からいかに多くの文学や絵画が生まれたことでしょう。

                 

 里やまとよばれるこの日本の原風景ももちろん原生林ではありません。ふるい文明が拓いた土地では手つかずの自然は望むべくもありませんが、しかし、不思議なことに日本の里山は、先祖代々使いこまれた大地に生命力がみなぎっています。

 

 水田や小川のほとりに神社のもりがうずくまり、村人の生活と自然が溶け込んだそのしたわしい空間は、芽吹きと収穫を繰り返しながらも破綻せず、ゆらゆらと動きつつ更新します。こうして、安定した振動状態の自然、いわゆる動的均衡のとれた撹乱生態系が育ちました。保護された不動の自然ではなく、ほどよく撹乱され揺すぶられた自然は、ふたたびハツラツとして蘇ります。

            

 水と陸のからみあう曖昧なその大地に、銀杏、つくし、竹、ささといった太古の植物がその命をつないできました。陽光と陰影の交錯するそのかげろいの大地で、カブトムシ、トンボ、蝉、蝶などの昆虫はもちろん、蛇、トカゲ、亀のような爬虫類、あるいはカエル、いもりといった両生類などおどろおどろしい妖精たちが生を競います。

                      

 最近はまたこれをミニ・ジュラシックパークと呼ぶ人もでてきたそうです。一億5千年から2億年まえ、ジュラ紀から白亜紀にかけてあの大地をゆする恐竜が我がもの顔に歩き回った時代。そして水中から陸へあがった魚類が進化して鳥類や爬虫類などへ進化しながら、陸地の奥へとひろがった中生代。その幻想的な環境のミニアチュアのような里山だというわけです。

 

 学問的な議論はともかく、動物園でもない生活の場にこのような多様な生命の劇場がひろがっていることに、あらためて目をみはるのはもっともだとおもいます。気候変動、火山活動、隕石落下など、とてつもない時間の流れのなかでくりひろげられた修羅場をのりきってきた生物進化の絵巻物の夢が里山にかさなっています。                      

 縄文時代には里に近い山に栗や漆をうえ、すでに開発がはじまっていたそうです。それいらい、里山は何度となく過剰な開発の危機と保護をくりかえし、いままた宅地開発や放棄による荒廃のなかで日本人の原郷もそのありかたが模索されています。

           

 もののあわれという古典美学の源流に位置する里山は、近代社会の妄想した野生と文明という性急な2分法神話を戒め、その隙間にかくれていた幻想的な第3世界をおもいださせてくれます。

 

 そしてまた、ジュラッシクパークというおとぎ話は、地球生命史を遡る遥かなる時空の旅へ私たちを誘ってくれるでしょう。

          

 天と人が出会うその不思議な領域は、ヒトの社会と生物の社会が長い抗争のはてにたどりついた均衡点です。両者の知恵がいきずく戦略的あいまいこそが、里山であり、その社会生態複合系は持続型社会の古典モデルになるでしょう。

                   

 古典とはまことに様々な解釈をゆるしながら、いつまでもわたしたちを導いてくれます。

 

 

                                                                 (2015年7月4日)

                                                                  東京工業大学名誉教授

 

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